「サイコロを振ったら、6の目が出た」という文について考えてみよう。
サイコロを振るというのは、サイコロを振ろうと思ったあと、実際に、サイコロをつまんで、手のなかか、手の表面にサイコロをおき、テーブルやボード盤にサイコロを投げるという行為になる。一連の動作のことをいうのだ。
まあ、ボード盤のうえにサイコロを投げたら、ボード盤から、はずれて、サイコロが床の上に転がるということだってある。
そういうことを、見ている場合、何回の思考として考えるかは、恣意的にならざるを得ない。
実際に6の目が出て、自分が6の目が出たと認識する。この認識を、1回の思考として考えるか、あるいは、無視してしまうかということが、ちゃんと決まるわけではないのだ。
ある人は、認識したのだから、1思考だととらえるだろうし、ただ単に認識しただけだから、1思考ではないととらえる場合だってある。「サイコロを振ったら、6の目が出た」という文には、大きく分けてふたつのパートがある。
サイコロを振るというパートと、6の目が出たというパートだ。
これで、2思考だと思う人だっている。けど、「サイコロを振ったら、6の目が出た」ということをひとつの思考だと思う人だっている。
あるいは、「サイコロを振ったら、6の目が出た」というのは、行為と行為の結果について述べただけなので、思考がないと思う人だっている。サイコロを投げるときのアクションだって、細分化できる。
ひとつひとつに、思考がかかわっていないとは、言えない。
どういう気持ちで、サイコロをにぎったかということは、思考の回数ということを考えるならば、重要なことだ。手のなかで、ころころと、サイコロをまわしているときに、なんらかの意図がある場合は、なんらかのことを考えていると言っていい。
だから、これだって、1思考になってしまうかもしれない。ともかく、文と思考の回数というのは、かならずしも、一致しないのである。
そして、どこまで細分化して「思考」と考えるかは、人によってちがう。サイコロを振るということにこだわらず、サイコロを何回も振ったゲームを考えて「ゲームをした」と考える場合だってある。
「サイコロを振るゲームをした」ということを1思考として考えてしまうかもしれない。