いま、Youtubeの動画を見て思ったのだけど、たしかに、むかしは……「働かずに食べるメシがうまいか」という言い方があった。
けっきょく、「働いて食べるメシがうまい」「働かずに食べるメシはまずい」とこたえさせたい意図があるのだろう。そういう発言なのだ。
ところが、前提がそもそもおかしいのである。
うまいメシは、うまいし、まずいメシはまずいのだ。働いて食べるか、働かずに食べるかということは、関係がない。
働いた後に食べるメシはうまいということになっているのだろうけど……いろいろと場面が限られているのだ。実際には、ちがう。
働いた後に食べるメシがうまいというのは、体を動かす仕事をして、そして、腹がへった状態で食べるからうまいという意味があるのだ。
けど、体を動かす仕事をしている人たちばかりじゃないし、猛烈なストレスをためて仕事をしている人たちだっている。猛烈なストレスをためて仕事をしている人たちが、働きながら食べるメシは、まずいのではないか。
「働いて食べるメシがうまい」という発言をしている人たちの頭の中には、スカッと仕事をして、同僚と、ビールを飲みながら、話をしながら食べるのがうまいというようなイメージがあるのだ。
ところが、そういうイメージ自体を、多くの人が、持ちにくくなっているのである。
なので、こういう言い方は、はやらなくなってしまった。「働かずに食べるメシがうまいか」という発言が誘導している「こたえ」というのがあるのだ。
ところが、誘導するための前提が、過去のものになってしまったので、「働かずに食べるメシがうまいか」という発言も、過去のものになってしまったのだ。
だいたい、イメージだけの人たちなんだよな。働かずに食べるメシがまずいと決めつけているけど、そんなことは、最初からない。うまいものを食べれば、うまいと思うだろ。
働かずに食べていても、うまいと思うだろ。なんで、働いているかどうかが関係しているのか、わからない。
まずいものを食べたらまずいと思うし、うまいものを食べたら、うまいと思うにきまっている。
それこそ、決まっている。
もし、体を動かしてから、食べたほうがうまいと感じるということであれば、体を動かしてから食べたほうがうまいと言うべきなのだ。
たとえば、散歩したあとに食べるメシはうまいとか、ジムに行った後に食べるごはんはうまいとか……。別に、働く必要はないのである。
体を動かしたほうが、いいという話なのであれば、体を動かしたほうがいいという話をするべきなのだ。
体を動かすことと、働くことは、イコールじゃない。
体を動かすことからしょうじることを、仕事をするからしょうじることだと思っているのだ。前提で、間違っている。
そして、働いた後、友好なコミュニケーションがあるような前提で話しているけど、それだって、働いた後、常に、友好なコミュニケーションがあるわけではないのだ。会社の同僚と、酒を飲みながら、食べるのが楽しいという、レアなケースを想定しているのだ。あるいは、会社から帰って、家族と楽しく食べるということを想定しているのだ。
実際に、働いている人のうち、どれだけの人が、そういうことを楽しめるのか、まったく、考えていない。
仕事で疲れ果てた後、家に帰って家族と友好なコミュニケーションを楽しみながら、メシを食べられる人が、どれだけいるのか?
実際には、少数派であるほうを、多数派だと思い込んでいるのである。
「働かずに食べるメシはうまいか」と人に言う人は、働いた後、いい気分で他人とコミュニケーションをしながら食べることを想定して、その発言をしているのだけど、働いた後、他人と友好なコミュニケーションを楽しみながら、メシを食べられる人は少数派だ。
働くということが、他人と友好なコミュニケーションを楽しみながら、メシを食べられるということの前提になっているのだけど、それは、相当に楽観的な前提だ。
実際には、むしろ、働いているから、不機嫌になり、楽しくない気分で食べている人が多いのではないかと(ぼくは個人的に)思う。
「働かずに食べるメシはうまいか」と人に言う人は、働くからこそ生じるストレスを無視している。スカッと、働いて、いい気分でごはんが食べられると思っているのだ。その前提自体が、おかしい。
そして、「働かずに食べるメシはうまいか」と人に言う人は……「働かずに食べている人は、うしろめたい気持ちでごはんを食べている」……という前提で、「働かずに食べるメシはうまいか」と人に言っている。
これも、おかしな前提だ。
けど、「働かずに食べるメシはうまいか」と人にいう人たちがいたということは、この前提が、ある程度、常識的な前提だったということを意味しているのである。
まあ、ともかく、働いているか働いていないかに関係なく、うまいものは、うまいし、まずいものはまずい。働いているかどうかは、ごはんのうまさと……たいていの場合……関係がない。
けど、働いているとストレスがたまって、ご飯がうまく感じないというのはあるかもしれない。なので、この場合は、逆に、働いているからごはんがまずいということになる。逆ですね……。まあ、「働いて食べる飯はまずい場合もある」ということですねーー。
以上、ぼくからの報告でした。
* * *
いや、ちょっと付け足しておこう。
実際、サラリーマンとして働いているなら、朝ごはんは、かなり余裕がないものになる。働いているから、余裕がなくなるのだ。
なので、働いていると、朝ご飯がまずくなる確率があがる。余裕がないので、おいしいとかまずいとか言ってられない状態になる。
これは、ゆっくりと楽しんで食べるイメージとは、だいぶちがう。
昼ごはんも、余裕がない。時間的な余裕がない人のほうが多いだろう。昼食時間に、外食をするとなると、相当に余裕がないスケジュールになる。
「余裕なく、食べるごはんは、うまいか」と質問したくなる人もいるだろう。
余裕がない状態で食べるごはんは、余裕がある状態で食べるご飯よりもまずいと思うのは、俺だけか?
働いて食べるごはんだよね。働いているから、昼メシの余裕がなくなる。
だったら、働かずに、余裕がある状態で食べる昼メシのほうが、うまいのではないかと思ったりする。
まあ、人によるけどね……。働いているかどうかよりも、体調のほうが(ごはんのうまさに)大きな影響をあたえると思う。働きながら食べるごはんがうまいと思っているやつは、いったいどんな、食生活をしているのだろう?
働いているかどうかという条件よりも、ほかの条件のほうが、食べたものがうまいと感じるかまずいと感じるかに影響を与えると思うけど、あえて、働いるかどうかだけを問題にするならば、働かずに食べるごはんのほうが、うまい思う。
どうしてかというと、まず時間的に余裕があるからだ。そして、じつは、働いていないほうが、食事自体の選択肢が増える。
たしかに、食事自体の選択肢には、おカネの問題がつきまとう。
けど、食事の選択肢における自由度の問題と、おカネがあるかどうかの問題は、イコールではない。働いている人のほうが金を持っていると前提してしまうのは、問題がある。
まあ、時間の問題もそうだけど、働いている場合の、昼メシにおける選択肢の自由度と働いていない場合の昼メシにおける選択肢の自由度をくらべた場合、働いていない場合のほうが、自由度が高い。
朝も、時間的な余裕がちがうので、働いていない場合のほうが選択肢の自由度が高い。夜は、疲れ果てた体ならば、やはり、働いていたほうが選択肢の自由が低くなる確率が高くなる。
いろいろな条件が考えられるけど、働いていたほうが、選択肢の自由度が低くなる傾向があるといえる。この場合の選択肢というのは、朝ごはん、昼ごはん、夜ごはんの選択肢ということだ。働いていると、「ほんとうに食べたい」と思ったものを(そのとき)食べられる確率が低くなる。
* * *
まあ、これ、うまいかどうかという話ではないんだね。元の話は、じつは、倫理観の話なのだ。働いていないという状態に関して、倫理的にまずいと思わないのかという話なのだ。それが、「ごはんをうまく食べられるかどうか」という問題にすり替わっている。
「働いていないなら、倫理的な負い目があるはずだから、ごはんもうまく感じることができないだろ」という前提があるのだ。
だから、これは、仕事観と倫理観の話なのだ。じつは、ごはんのうまさは、そんなに関係がない話なのだ。最初から、ズレている。
だから、働いていないということに倫理的な負い目がない人にとっては、「ちょっと、なにを言っているのかわからない」という話になってしまう。実際、働いていないということに倫理的な負い目を感じない人が増えたので、「働かずに食べるメシがうまいか」という言い方がすたれたのだ。
「働かずに食べるメシがうまいか」と他人に言う人は、相手が「うまく感じない」ということをこたえるという前提でその言葉を他人に言っているのだ。ところが、相手が「うまく感じますけど、なにか?」とこたえるようになったので、「働かずに食べるメシがうまいか」と言えなくなってしまったのである。
* * *
これは言ってしまっていいことなのかどうかわからないけど、金持ち支配者層にとって、「働かずに食べるメシがうまいか」と他人に言う人を増やしておく必要があったのだ。「働いていないなら、倫理的な負い目があるはずだから、ごはんもうまく感じることができないだろ」と思う人間を増やしておく必要があった。
けど、ゆらいでいるのである。
いまは……金持ち支配者層が……「働いていないなら、倫理的な負い目があるはずだから、ごはんもうまく感じることができないだろ」と思っているような人間を……切り離している状態なのである。まあ、切り捨てている状態と言ってもいい。けど、まだ、それは、主流じゃないのである。