2023年5月30日火曜日

「うんちくを傾ける」

 「うんちくを傾ける」と表現するときは、うんちくを語っている人に対して中立的なイメージがある。しかし、「うんちくを垂れる」と表現するときは、うんちくを語っている人に対して悪いイメージがある。「傾ける」と「垂れる」でちがう。これは、だれが感じていることかというと、言っている人、書いた人が感じていることなのだ。ようするに、だれかがだれかのことをどう思っているのかということをあらわしている。たとえば、だれかAと、だれかBがいたとする。Aが自分の知っていることについて、Bに語ったとする。BがAの言っていることには、わずかだがたしょうの価値があると思っている場合や、Aの言っていることは特に不快ではないと思っている場合は、Bは「Aがうんちくを傾けた」と表現するけど、BがAの言っていることには価値がないと思っている場合は、Bは「Aがうんちくを垂れた」と表現するのだ。Bの感情が「傾ける」と「垂れる」のちがいになってあらわれている。「Aがうんちくを垂れた」とBが表現する場合は、BはAの話に不愉快ない印象をもっているということを表現している。

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「うんちくを垂れる」という言い方はまちがってるという説がある。しかし、そういうふうに言う人たちが、実際にいる。「うんちくを垂れる」という表現を使う人たちが、実際にいる。彼らの気持ちを無視していいのだろうか。彼らには「垂れる」と言いたい気持ちがあるのだ。まあ、ぼくは、「うんちくを垂れる」という言葉を、今回以外で、使ったことがない。ぼくは、「うんちくを傾ける」と言葉を使っている。特に悪意がない場合は、「かたむける」を使いましょうね。誤用ということになっているから。

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「たくわえた知識」と「教え」はちがう。だから、「教えを垂れる」は正しいけど、「うんちくを垂れる」は正しくない……。こういう理屈なんだよね。けど、たくわえた知識が、マナーにかかわることやルールにかかわることであった場合、その、「たくわえた知識」は、「教え」になる。なので、「たくわえた知識」と「教え」が重複する場合がある。ようするに、「たくわえた知識」だから、「教え」にならないかというと、そうではないのだ。ここのところを、「誤用だ」と言う人たちはどう考えているのだろうか。

ようするに、「たくわえた知識」であるか「教え」であるのかを「客観的に」判断することができないという問題が、よこたわっている。これ、現実社会では、言われたほうの主観なんだよ。なにか客観的に「たくわえた知識」が存在しているわけではない。

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うんちくに関しては「かたむける」のほうがコロケーションとしては正しいということは言える。ようするに「たれる」と言っている人が、知らないで「たれる」と言っているのか、自分の気持ちを表現するために「たれる」と言っているのかのちがいはあると思う。

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