2023年12月18日月曜日

「いいきみだ」「ぶざまだな」

 ところで、いいきみ(好い気味)という表現があるけど、これは、気分がいいという意味であって、自分の気分について語っているのだ。「いいきみだ」……相手の状態を見て、自分の気分について語っている。相手の状態について、語っているわけではないのだ。Aさんと、BさんとCさんがいるとする。Aさんが、Bさんに常に意地悪をしてきたとする。CさんがAさんをぶんなぐったとする。いたがっているAさんを見て、Bさんが「いいきみだ」と言ったとする。この場合、Aさんの状態について「いいきみだ」と表現しているのではなくて、それを見ている自分の気持ちについて「いいきみだ」と表現しているのだ。「いいきみ」というのは、気持ちがよいという意味だ。けど、単に気持ちがいいということではなくて、自分がきらいな相手が、こまっている状態を見聞きして、気持ちよくなったときだけ「いいきみ」と表現するのだ。たいていの場合は、きれいな風景を見て「ああっ、いいきみだ」と言ったりしない。ともかく、「いいきみ」というのは、自分の感情について表現しているのであって、相手の状態について表現しているのではない。しかし、相手の状態が連想されるので、あたかも、相手の状態についてのべているような感じがてしまう表現なのだ。

いっぽう、「ぶざま(無様)(不様)」という表現は、相手の状態について語っている表現なのだ。Aさんと、BさんとCさんがいるとする。Aさんが、Bさんに常に意地悪をしてきたとする。CさんがAさんをぶんなぐったとする。いたがっているAさんを見て、Bさんが「ぶざまだな」と言ったとする。Aさんが、かっこう悪い状態になっているわけだ。そのかっこうが悪いありさまを、Bさんが「ぶざまだな」と表現しているわけだ。だから、これは、相手の状態について語っている言葉だ。本人の主観なんだけどね。

 

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『たいていの場合は、きれいな風景を見て「ああっ、いいきみだ」と言ったりしない』と書いたけど、きれいな風景を見て「ああっ、いいきみだ」と言う場合もある。たとえば、自分が山に登って、いい風景を見たとき「ああっ、いいきみだ」と言う場合もある。ある人と自分がいて、そのある人は、「このいい風景」を見れないけど、自分は「このいい風景」を見ることができたので、相手(そのある人)にくらべて、自分のほうがいい思いをしていると思ったときは、いい風景を見たとき「ああっ、いいきみだ」と言うかもしれない。この場合は、目の前の風景よりも、相手よりも自分が「いい思いをしている」ということに心理的な焦点がある。まあ、山に登ったときは、いい風景と言うよりも、いい景色と言う場合が多いような気がする。風景の場合は、すべてが対象になるのだけど、景色の場合は、自然物しか対象にならない。だから、山に登って「いい風景だ」と言うこともありえる。

けど、比喩的には?「街の景色」というように、人工物も、対象になるような気がする。 舗装された道路と家屋やビルにうめつくされた街は、自然物ではなくて、人工物だよなぁ。まあ、自然物の上に人工物をのせたり、建てたりしているだけだけど。舗装されてない道は、自然物なので、「街の景色」でもいいのか。山が見える「街」だってあるだろうしなぁ。「街の風景」と言うべきところなのか? たとえ、自然物が見えない状態でも「街の景色」と言いたくなるのは、なぜなんだろうなぁ?


 


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