とりあえず、玄関の内側に置いてある段ボールの処理をした。けど、全部じゃない。当然、大きいのが何個も残っている。なんとか、置けるスペースをあけたという感じだ。買うものが、今回は少ないから、あれでいけるかな。
ワク臭のことがあるから、あんまり、ワクチンを打った人をうちの内部に入れたくないという気持も、ある。これ、きらわれるよなぁ。さけられているのがわかるから……。
ともかく、楽しいことばかりがおこる世界に行きたい。俺の脳みそはもう、消耗しているから、俺の記憶はないほうがいいだろう。まあ、俺の記憶がある状態で、生まれかわれるなら、それでもいいかな。
けど、ぼくは……「それ」は……フィクションじゃないかと思う。
まあ、「それ」は、不定だね。
死後の世界はあるとも言えないし、ないとも言えない。ないと言いきることはできないんだよ。ないと言いきることは、科学的な態度ではないんだよ。言いきれないことを言いきることになるからね。これは、科学的な態度じゃない。
ともかく、もう、しんどいわけだから……様々な記憶と、さまざまな体験によって、身も心もボロボロだからね……。自分で言っててさみしくなるけど、実感というやつがね……。
たとえば、いま、右胸のところがかゆいのだけど、かゆいのはかゆいんだよ。不愉快なんだよ。実感がある。
実感と関係なく、楽しくなったり、うれしくなったりするわけがないだろ。言えば言った通りになるってわけじゃない。楽しいと言えば楽しくなるというのは、まちがっている。楽しいと言ったあと、楽しく感じることはあるかもしれない。けど、何度も言うけど、100%詐欺になってしまっているんだよ。楽しいと言えば、楽しく感じる場合があるということと、楽しいと言えば、100%の確率で楽しくなるということはちがうんだよ。楽しいと言えば楽しくなるというのは、楽しいと言えば、100%の確率で楽しくなるという意味になってしまうんだよ。
「楽しいと言えば楽しくなる」と言われること自体が、楽しくないことなんだよ。そういう、カルト的なことを言わないでほしいんだよな。こっちの実感を無視して、そういう、カルト的なことを、自信をもって言わないでほしいんだよな。何度も言うけど、「楽しいと言えば、楽しくなる場合がある」という文の意味と「楽しいと言えば、たのしくなる」という文の意味は、ちがうんだよ。